与板Q&A(6)
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与板町の伝統産業(金物業)の歴史を教えてください
与板の金物業(打刃物)の歴史は古く、上杉謙信の重臣・本与板城主直江大和守景綱が、春日山から刀剣師を招いて製造を始めたのが最初と言われている。

さらに上杉謙信の後継者である上杉景勝の執政・与板城主直江山城守兼続は、鉄を出雲や播磨方面から求め、刃物や鉄砲の製造を行った。

江戸時代、牧野藩主の時代には、刀剣師須藤孫衛門助道が天下に知られ、井伊藩主の時代になると、刀剣では、坪井幸道や龍眠斎、鑿(のみ)では、兵部鑿や、土肥鑿(土肥助衛門の名を取った)などが有名になった。

明治時代になると、会津で新しい技術を学んだ人たちが鉋(かんな)の製作を行い、徐々に大工道具の製造に中心が移っていった。明治44年(1911年)には、徒弟の教育、製品の改良進歩を目的とした『与板金物共励会』が設立された。その後、大正年代にかけて、安達重吉の蒸気ハンマー、長田登一郎・木村互太郎の動力使用、鍛接に硼酸の使用、燃料は木炭からコークスへと、技術が進歩し、業者数も増えて、このころから与板の金物は全国的に知られるようになった。

しかし、その後は順風満帆というわけにはいかず、大正年間の不景気、税金の特別戸数割の負担、昭和10年頃の軍需産業などで、金物業界は打撃を受けた。この間、大矢此吉の『金物販売購買組合』設立や、山田正雄・中村尚武らによって、販路の拡張に力が注がれた。戦後は、『与板鍛工組合』(1945年)、『与板金物共励組合』(1951年)が再建され、エアーハンマー、切断機、重油炉などの技術革新も手伝って、一時は鑿業者約70軒、鉋業者約70軒、金物問屋30軒という最盛期があった。

しかし、その後は電動工具の発展と反比例するように与板の打刃物は衰退していった。そんな中で、”越後与板の打刃物 ”は昭和61年3月に伝統的工芸品として通産大臣の指定を受けた。一方で、経営不振や後継者不足が深刻さを増していた時期でもあった。

その後、400年以上の歴史と伝統を誇る地場産業を守り活性化させようという若者たちが現れ、平成元年5月鍛造業の若者からなる『同僚会』が発足した。現在でも、業界は厳しい状況にはあるものの、古式鍛練を再現した『ふいごまつり』を与板町で恒例行事化させたり、全国の刃物市や、さまざまなイベントにも積極的に参加して、”越後与板の打刃物 ”の新しい魅力の紹介に努めている。