徳昌寺
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与板町役場の南、約200メートルの丘陵に曹洞宗香積山徳昌寺がある。この徳昌寺は縄文文化時代の徳昌寺遺跡と良寛ゆかりの寺として有名である。遺跡からはいろいろな石器が出土しているが、中でも石錘(せきすい)が一番多く、しかも大型である。これは地引き網の重りで、共同してサケ、マスなどの大きな魚を採っていたものと思われる。

土器は縄文中期のものが最も多く、大型厚手の深鉢や甕が主である。渦巻きや炎のような文様がさまざまに変化隆起し、器体は豪華立体的で、原始の神秘を感じさせる。住居の跡も縄文中期のものが発見されており、与板の遠い祖先は今徳昌寺のあるこの台地で、山野や河岸を駆け回り、たくましく生き抜いていたことであろう。

良寛の時代の住職は大機和尚といい、どちらかが先に死んだら生きているものが葬儀の導師を務めようと約束していたほど良寛とはじっこんの間柄であった。

徳昌寺には昭和29年建立の三条地震供養を喜ぶ良寛の詩碑が山門を入って右手に建っている。文政11年良寛71歳の冬に信濃川沿いの町三条を中心に地震が突如として襲った。死者1600人、怪我人は1500人と伝えられている。翌年春与板藩主井伊直経は徳昌寺で藩内死者の法要を営んだ。良寛はこの仏事を人から教えられて感激し、詩と歌を作った。

詩の最後の和歌

ももなかのいささむらたけいささめの いささかのこすみずくきのあと