本与板城(址)
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本与板城主は建武元年(1334年)越後の守新田義貞の代理新田義顕(にったよしあき)の一族・籠沢入道(こもりざわにゅうどう)が最初といわれている。その後、南北朝の動乱時代には越後の守護・上杉憲顕(うえすぎのりあき)の一将、中条与次郎景宗(かげむね)が居城とし、室町時代の文明年間(1480年代)越後の守護上杉家の家臣飯沼氏(いいぬまし)が代々居城とした。

室町時代後半の戦国時代には、越後は守護上杉家と守護代長尾家が対立し、長尾為景(上杉謙信の父)に対抗した飯沼貞頼は永正11年(1514年)に敗れ、飯沼氏は断絶した。
越後は次第に長尾為景に実権が移り、天文年間(1540年代)にはその重臣直江実綱が本与板城主となった。
直江実綱は為景、晴景(謙信の兄)、上杉謙信の三代の重臣として活躍した。特に上杉謙信の智将として、租税、領地などの内政面を始め、越中、信濃、関東方面の外交の任にあたった。
その一方で、数々の戦闘に功を挙げ、その中でも有名な川中島の合戦には槍隊の隊頭として活躍した。
また、直江実綱は城下の開発にも力を注ぎ、浄土真宗の寺院と農民を主に北信濃から招き、田畑の開発を積極的に進めると共に、春日山から刀剣師を招くなど手工業を奨励した。
こうしたことから人口も増加し、耕地も拡大してゆき、城下の体裁も次第に整えられていった。
本与板城は町の北部にある本与板の丘陵地に位置し、丘陵先端の自然を巧みに利用した戦国時代の典型的山城である。
山頂に一の郭(くるわ)、二の郭、三の郭を一直線に配置した連郭式山城で、それぞれ土塁を巡らし、深い空濠(からぼり)により区分されている。中心の郭(本丸)の周りには、南郭や腰郭が配置され、東側先端には本城と一体をなす前要害郭がある堅固な山城である。

尾根伝いには、三島丘陵や上中下越の拠点へ連絡するに容易であり、眼下に中越一帯を収め、信濃川は天然の濠でもあり、河川交通や軍用として利用された。
城郭に沿う街道は、寺泊・弥彦から下越へ、長岡方面および上越へ、また和島や出雲崎への海岸線に通じている。この本与板城跡は県指定文化財にもなっている。

写真(上)は、本与板城址入り口に立てられた案内板、写真(中)及び写真(下)は本丸跡にある記念碑。また、南側登り口から登ってみたところによると、道はかなり急であり、この道自体空濠と思われた。途中南郭跡と思われる平坦部が確認され、本丸跡へと道は続いていた。本丸跡は高い杉の林に囲まれてはいたが、平らで、その広さはかなりのものに思えた。二の郭、三の郭等については、倒木、雑木のため、確認を断念した。