万歳閣 
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写真@全景拡大
写真A標識
写真B跡地全景
写真C記念碑
写真D説明表示板
万歳閣は、本与板の浄土真宗光西寺(こうさいじ)住職の藤井界雄が本与板城跡に建てた地方まれに見る荘厳な建築物である。

藤井界雄は日清戦争後、その戦死者慰霊のために自ら京都や奈良に出かけて仏像制作の研究をし、阿弥陀仏と釈迦牟尼仏の立像を造った。この仏像には古い経巻や破本を糊で固めて作る乾漆の手法が用いられ、多くの資金を必要とした。そのため、界雄はもとより地元民や有志らも協力し東奔西走した。この仏像の開眼式は明治37年(1904年)8月であった。

その後界雄は日露戦争の戦死者供養のために、高さ約5メートルの大仏(与板大仏)制作を発願し、大正12年(1923年)8月21日、奈良の法隆寺管長佐伯定胤(じょういん)の導師で入仏開眼が行われた。こうして造られた仏像は天平様式の万歳閣と護国殿の二大伽藍に安置され、多くの参詣者で賑わった。

しかし、惜しいことに界雄はこの開眼式を見ることなく前年の大正11年に病没したが、界雄亡き後繁栄は長く続かず、大仏像の頭部は地元民の強い反対を押し切って長岡に運び去られ、昭和6年4月15日には万歳閣が浮浪者の失火により焼失。護国殿もその後豪雪のために倒壊し、ここに藤井界雄一代の偉業も崩壊してしまった。ただ、清国戦死者追悼のための釈迦牟尼仏だけが現在も歴史民俗資料館に安置されている。

なお、この万歳閣をモデルに作られた建物が与板歴史民俗資料館である。